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こんにちは。

関係性について藤村先生が語り始めていますので、実は「銭」「関係性」を断ちきる手段として成立したという事項を頭に入れておく必要があるという問題提起をしたいと思います。

はは。こんな事を言うのは私くらいです。

単純に苔の生えたノウハウや偶然の事例を列挙する事でコンサルタントを名乗る人物が多い中で、「物を売るな体験を売れ」と自分自身の哲学を販売している氏を尊敬申し上げておりますが、どうも良く考えもせず、これを受け売っているお弟子さんが多いように思えます。

皆さん、無批判無思考は、バカへの一里塚です。自分なりに良く咀嚼して、受け売れるなら受け入れる、再考するなら再考する。

この立場は、誰に対しても同じです。

網野善彦 氏によれば、日本の社会に金属貨幣が本格的に流通を始めたのは13世紀のことだと言います。

それまでの交換手段であった米や絹と違い使用価値の無かった銭ー金属貨幣が富の象徴になってくると、富のイメージを大きく変えたと言われています。

物が商品になるということは、通常ではありえない出来事だったのです。

物と物とを商品として交換するというのは、ある時期までの社会では普通の状態では実現できないことでした。

人と人の間で物が交換されるというのは、いわゆる「贈与互酬」の関係になります。

贈り物をし、相手からお返しをもらうという行為が行われれば、人と人の関係はより緊密に結びついていかざるを得ません。これでは商品の交換にはなりえないというのです。

常に味噌1升と油1升が等価交換出来る訳ではないのです。

物が物として相互に交換されるには、特定の条件を備えた「場」が必要で、その場が市場である。市場においてはじめて、物と物は贈与互酬の関係から切り離されて交易される。市場とは、日常の世界とは縁の切れた「無縁」の場であるというものです。

平安時代から、「虹の立つところに市を立てなければいけない」という決まりがあったのも、虹があの世とこの世、神の世界と人間の世界、聖と俗の境であるからであるというのです。

「無縁」という市の場では、物にせよ人にせよ、いったん神のものにしてしまう。あるいは誰のものでも無いものにしてしまう。その上で物と物の交換が行われるというものです。

すなわち、妻も夫も俗界の「縁」が切れるので一人の女、一人の男として自由に交換が出来る場所として、神の祭りの場・カーニバルがあった事は良く知られていますが、市場とは日常の世界、俗界から物も人も縁が切れるという状態が出来て、初めて商品の交換が可能になったという説です。

貨幣がこの交換の手段として、日常を「無縁」に変えるものになった時代、銭が富の象徴になった時代、「徒然草」には、大福長者 という金持が、

銭は、君のごとく神のごとく、恐れ尊びて使かえ

と言っております。

色々な欲望を抑え、ひたむきに銭を備蓄することに「徳」があると。このころの裕福な人を「有徳人」と言うようになったのです。バリやヒルズにいるのかどうか知りませんか^^

銭は、神聖な神の代用品であり、いったん銭となった価値は、すなわち誰のものでもない「無縁」の価値であり、それ自体が市場であると。

「価値」は交換によって生まれるが、「貨幣」は関係性を断ちきる物として成立した。

真に、考える事の多い問題です。そんなに単純に受け入れられる知性が多いとは思えないわけです。



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