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こんにちは。

延文元年(1356年)に書かれた『諏訪大明神絵詞』には、蝦夷が、渡党、日の本、唐子の三種に分かれ、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似ており言葉が通じ、本州との交易に従事したと記載されています。

北方諸民族は山丹貿易などの交易に携わっていましたが、特にアイヌは和人や大陸との交易なしでは生活必需品が確保できない文化を形成しており(鉄製品と漆器、絹織物など)、彼らと和人の仲介役として渡党が活躍しました。

志苔館跡(函館市)からは、15世紀前半ごろ埋蔵と推定されている甕の中から計40万枚にのぼる主に中国の古銭が発掘されており、これは日本国内で1カ所から発掘された古銭としては最大級の量です。

もともと「日の本」とは、東方を指した言葉のようです。



江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれていました。蝦夷地は松前の殿様に植民 のように支配されていました。当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢 をとることができませんでした。しかし、松前は蝦夷地の交易による利益で、藩が成立していました。

最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交 易していましたが、しだいに商人にまかせるようになりました。交易品には、和 人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワ シの尾羽(矢の羽に使う)などの産物がありました。

根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村 (岐阜県下呂町)の飛騨屋の武川久兵衛(たけがわきゅうべえ)という人でした 。飛騨屋はもともと材木商でしたが、松前藩に多額のお金を貸し、松前藩はこの お金を返す代わりに、根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたのでした。

どうやらまた一つお勤めが増えるようです。詳細は明日。と思う人は


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