2012-02-09 (木)
安曇氏は、古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島(AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている)一帯から離れて全国に移住した。
安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。
記紀に登場し、「日本書紀」 の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
その他、「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。
また海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。
■
プロローグ
沖ノ島は、島全体が御神体とされ、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも毎年5月27日外の上陸は基本的に許されず、その数も200人程度に制限されている。
宗像茂隆は参道とは名ばかりの400段の階段を這うように登っていた。この島には通常大社の神職が10日ごとに一人派遣されるだけだが、2月、しかも夜半に彼がここにいることを怪しむ人はいないようである。
二の鳥居を潜り抜けようとしたところで、遂に彼は力尽きて仰向けに倒れ、クスノキ科の常緑高木のタブノキの間から見える夜空を眺めた。
彼はしばらく横たわったまま息をあえがせていたが、やがて自分がまだ生きていることに気がついて、うつ伏せになって階段を這い登り始めた。
黒い絵の具をぶちまけたような静けさの中で、心臓が凍りつくような近くから人の声が聞こえた。
「動くな」
ゴミはおろか社周辺以外は人の手の入った形跡はまったくないこの山道で、人間の声を聞くことで彼の身体は固まり、手のひらと膝を石段に貼り付けたまま、ゆっくりと首をまわした。
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古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島(AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている)一帯から離れて全国に移住した。
安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。
記紀に登場し、「日本書紀」 の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
その他、「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。
また海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。
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プロローグ
沖ノ島は、島全体が御神体とされ、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも毎年5月27日外の上陸は基本的に許されず、その数も200人程度に制限されている。
宗像茂隆は参道とは名ばかりの400段の階段を這うように登っていた。この島には通常大社の神職が10日ごとに一人派遣されるだけだが、2月、しかも夜半に彼がここにいることを怪しむ人はいないようである。
二の鳥居を潜り抜けようとしたところで、遂に彼は力尽きて仰向けに倒れ、クスノキ科の常緑高木のタブノキの間から見える夜空を眺めた。
彼はしばらく横たわったまま息をあえがせていたが、やがて自分がまだ生きていることに気がついて、うつ伏せになって階段を這い登り始めた。
黒い絵の具をぶちまけたような静けさの中で、心臓が凍りつくような近くから人の声が聞こえた。
「動くな」
ゴミはおろか社周辺以外は人の手の入った形跡はまったくないこの山道で、人間の声を聞くことで彼の身体は固まり、手のひらと膝を石段に貼り付けたまま、ゆっくりと首をまわした。
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