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こんにちは。

メルマガも出したし、とりあえずやることが終わった日曜日の夜です。さて、コルトレーンでも聞きながら、遠い過去に思いをはせてみましょう^^

騎馬民族征服説というのはは、結局のところ騎馬民族軍団の主・辰王は応神天皇であるという説で、ほとんど無理があると思われるのですが、この辰王という扶余族の特別な王について考えると、中国の史書『後漢書』馬韓伝を思い出します。

韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰(弁韓)。馬韓は西に在り,五十四カ国。その北に楽浪,南に倭と接する。辰韓は東に在り,十二カ国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二カ国、その南に倭と接する。およそ七十八カ国。

伯済は、その一国なり。大領主は万余戸,小領主は数千家を支配する。各々に山海の間に在り、土地は合わせて方形四千余里、東西は海が限界をなしている。いずれも昔の辰国である。馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。その諸王の先祖は皆、馬韓の族人なり。

■辰国はすでに滅んでいて、神聖なる辰王は、3国の世俗王とは別個に、馬韓人から「共立」されるものであったということです。これはまた、『三国遺事』の新羅の説話、延烏郎と細烏女の話を彷彿とさせます。

第八代阿達羅王の即位四年(157年)丁酉。東海の浜辺に延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)がおり、夫婦で暮らしていた。ある日、延烏が海中で海藻を採っていると、突然、岩が出現し、延烏郎を乗せて日本に帰った。国人はこれを見て「これは並みの人ではない」と言い、王に擁立した。

細烏は夫が帰って来ないのを不審に思い、夫を探し求めた。夫の脱いだ鞋を見つけると、彼女もまた岩に上った。岩はまた前回のように細烏を乗せて日本に帰った。そこの国人は驚き怪訝に思った。謹んで王(延烏)に(細烏を)献上した。夫婦が再会し、細烏は貴妃に立てられた。この時、新羅の日月は光を消してしまった。

日が奏して言うには、

「日月の精は、降臨して我が国に在った。今、日本に去ったので、この不思議な現象に到った」。王は使者を派遣して二人を求めた。延烏が、

「私はこの国に到ったのは、天が然るべくさせたものである。今どうして帰ることができようか。だが、朕の妃が織る薄絹が有るので、これを天に祭れば、可なり」と言った。言葉の通り、その薄絹を賜う。使者が戻って来て奏上した。その言葉に基づいて薄絹を祭った。然る後、日月は元通りに復旧した。その薄絹を国王の御庫に収納して国宝にした。その庫を貴妃庫と名付け、天を祭った場所を迎日県、または都祁野と名づけた。

■神聖なる王は新羅を捨てて日本に渡り、新羅には日の光も月の明かりも消えうせてしまったので、日本から絹を贈ってもらいこれを「神」の代わりとして祀ったという故事です。この話は男女が逆になれば、天日槍の話と良く似ていますが、日本書紀の弓月君の来日の話とも通底しそうです。

応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

■120県の民は少なく見ても3万人を下らない将来秦氏となる専門技能職能集団で、これが一斉に玄界灘をわたる様子は、実に壮観なものであったでしょうね。

誰か読むんですかね、これ^^



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