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こんにちは。

「国栖(くず)」と呼ばれる地域が、奈良県吉野郡吉野川上流にあります。日本書紀(応神天皇19年)には「国栖人(クズビト)」が、万葉集第 10巻の相聞歌には「国栖ら(クニスラ)」という言葉が出てくる個所があります。

どちらも同じく大和国家以前の山地に住んでいた人々に与えられた呼び方であったようです。
国栖人は主に岩穴に住んでおり、非稲作民で、独特生活様式を身に付けたいわゆる「山人」の象徴的な呼称であったと考えられています。
国栖の名は都の人々にも良く知られており、9月9日の重陽の節句に吉野の国栖人が古風の歌舞を奏したといわれています。
 国栖人はつる草の根から澱粉をとり、里に出て売ることがあったので、いつしかその澱粉を「クズ」と呼ぶようになり、その植物を「クズ」と呼ぶようになったと考えられています。

国栖の歌笛奏上とこれに関わる官司について

かつて大和の国の吉野山中には国栖とよばれた人々が暮らしていました。『記紀』では彼らの先祖が王権と出会うことにより贄を献じ歌笛を奏上することになった起源譚が語られています。日本古代において夷狄とされた人々の中においても、国栖はこれまであまりとりあげられることがありませんでした。研究の蓄積がある隼人や蝦夷とは異なり、国栖について論じた研究はきわめて少ないのです。しかしながら、国栖は吉野という飛鳥・奈良・京都にほど近い場所に居住しているのであり、また、大嘗祭など王権にとって重要だとされる儀礼に贄を献上し歌笛を奏上することが規定されています。

『古事記』神武紀

伊波禮毘古は言葉に従い八咫烏(やたがらす)の後についていいと、 阿陀(あだ)で朝廷に魚などを献上する国津神と出会い、国栖 (くす)で穴居民の迎えを受けた。

『日本書紀』神武紀

高尾張邑(タカオワリムラ)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長かった。磐余彦尊(いわれひこ=後の神武天皇)の軍は葛(桂)の網を作り、罠をはって捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。

『日本書紀』応神紀

吉野宮に行幸。国樔人(くずひと)が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んだ。国樔の人は、人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。また、カエルを煮て上等の食物としていて、名付けて毛瀰(もみ)という。

役の行者(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房,1994年、より)

  「日本霊異記」によると、役の優婆塞(うばそく:役小角)は賀茂の役の公の氏、いまの高賀茂朝臣(たかかもあそん)の出という。生没年は不明(701年死亡説あり)だが、七世紀の飛鳥、奈良時代の大和葛木上郡茅原(ちはら)村の出身で小角は字名。大和葛城山に住した呪術者で、修験道の発展とともに霊山との伝説が生まれた。葛の皮を装い、松の葉を食い、四○年余葛城山の岩洞に籠って孔雀王呪経の呪法を修し神通力を得度した。

臼井容疑者の商売道具『ニュー・リッチの王国』出版記念パーティ大盛況

アマゾンでの販売キャンペーンに協力してくれたアメーバの国栖人(クズビト)であるクリス岡崎さん、マツダミヒロさん、鳥居祐一さん、望月 俊孝さんなどが「必ず上場して値上がりする」と詐欺を働いた上場予定のないイーマーケティング社の未公開株販売道具である出版物をさかんに持ち上げた。



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