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こんにちは。

ブランディング・ビジネス と言うのは昔からあったもので、その最たるものは「系図屋」でしょう。江戸時代に就職したい浪人が自分の家系を彩る為に系図屋に頼んで作らせたもので、今でもあります。その信憑性の方は「盗品販売業」の人を警察用語で「ケイズヤ」と言うくらい確かなものです^^

まあ、元々足軽などに3代以前の由緒がある方がまれです。

さて、何故こんな事を思い出したかと言いますと「十日戎や七福神」と言う単語を最近良く見かけたからですが、

殆どの人に「正式な」苗字が出来たのは、壬申戸籍 と言うものが、明治5年(1872年)に編製されてからです。当時の日本の総人口は、3311万人と集計されました。

それ以前はどうだったかと言うと、江戸時代は宗門人別改帳というのがあって、「平民」はどこかの神社の氏子としてか、お寺の檀家として登録されていたわけです。元々は豊臣秀吉の天下統一の検地などとセットだったようです。

結局、仏教か神道徒以外を信奉する者は、「無宿者」「非人」ということだったようで、元々、非人という言葉は仏教用語です。

恵比寿というのは、呼んで字のごとく、夷のことで、七福神は海に流れ着いた外来の異教徒の集合です。元来江戸期までは日本に「職業選択の自由」など存在しなかったわけで、士農工商に属さない多くの職業の殆どは、この無宿者たちの仕事です。

これに比較的寛容だったのは、女たらしの源頼朝で、次のような伝説とお祭りが残されています。

~面掛行列と源頼朝の伝説~

 源頼朝は非人頭の娘を可愛がり、身籠もらせてしまい、娘のもとにおしのびで通う頼朝の警護を非人たちが引き受けたという。 そのような経緯から、年に一度だけの無礼講が許されたが、身分の低い非人であるため、大衆に顔を見せることができず面をつけたという。

鎌倉時代は叡尊や忍性による悲田院の再興を受けて西大寺真言律宗の元に組織化されたり、一遍の時宗とともに遊行する者もいたおおらかな時代でしたが、非人 に対する本格的な仏教改宗運動は、新興宗教・本願寺まで稀であったようです。

戸籍が出来たとき、人口の3割は身戸籍の非人だといったのは、民俗学の父・柳田国男ですが、

壬申戸籍では、皇族、華族、士族、卒族、地士(讃岐の郷士のみ)、旧神官、僧、尼、平民等を別個に集計したのですが、このとき被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入されたが、一部地域の戸籍には新平民や、元穢多、元非人等と記載されたと言います。

政府は、そんなのはごく少数だと否定していますが、

現在、この戸籍簿は行政文書非該当の扱いとなっており、各地方の法務局に厳重に保管され閲覧は不可能です。学術研究目的での閲覧を許可するように求める声もありますが、現在公開された場合、人権侵害の問題を生じるおそれがあるものと認められるため、近い将来においてこれを開封開示して利用に供することは想定されていません。

21世紀において、壬申戸籍の情報公開請求をした事例が2001年(平成13年)と2004年(平成16年)にありますが、いずれも行政文書非該当を理由に却下されています。

もはや現代においてはどうでも良い事と言えばどうでも良い事なんですが、隠されると知りたくなるのが人情と言うものです。

一説に寄れば、苗字の第一音で職能区別できるようにしたなどと言説もあるのですが、今でも、アンタッチャブルですね^^



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