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こんにちは。

一般には、柿本人麻呂は、晩年、石見の国の国司に左遷され、そこで土地の女性・依羅娘子と結ばれたということになっています。人麻呂が、後に死に臨んで辞世の歌を詠んだのはこの女性に向けたものであるとも。

柿本朝臣人麿の妻・依羅娘子(よさみのいらつめ)が、人麿と相別るる歌一首

な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか吾が恋ひざらむ

そんなに思い悩まないで欲しいとあなたは言うけれど、
今度いつ逢えるのかわからないから
わたしは嘆く わたしは恋い焦がれる
今度 いつ逢えるの
ほんとに もう一度生きて逢えるの あなた



事実は人麻呂がまだ畿内にいたころに知り合ったのではないでしょうか。

万葉集の中に堂々と個人の恋文が記されるというのも凄いですが、依羅娘子は高い教育を受けた教養豊かな女性であったと思えます。

依羅氏は、摂津国住吉郡大羅郷から河内国丹比郡依羅郷にかけての土地を本拠とした氏族。

新選姓氏禄に 「摂津国諸蕃(百済) 依羅連 百済国人素祢志夜麻美乃君より出ず」 との系譜もあることから、依羅氏は依羅池の建設に係わった百済系渡来人の子孫という(他に、物部氏の祖・ニギハヤヒの子孫とする系譜-左京神別・右京神別もある。)

これは別にorでは無くandでもいいんじゃないですかね。

百済系渡来人=ニギハヤヒ

ただ、これはまだ半島が新羅とか百済に分かれる前の伽耶の小国群のひとつ、というべきもののようで、しいて言うなら、むしろ後の新羅系渡来人なのでは無いでしょうか。

大阪の松原市のホームページでは、

依羅の地にある阿麻美許曾神社は「夜麻美」がなまって「阿麻美」となり、現在の「天美」に転化したとの説がある。

奄美大島の奄美も同一海洋文化圏の匂いが濃厚です。

新羅の初代王を赫居世という。赫が名で、居世はその治世をさす尊称、この居世がなまって「許曽」となったとの説もある。即ち許曽は朝鮮語で「様」の意味。

「晋書」東夷伝

(西晋の)武帝の時、(扶餘は)頻りに来て朝貢した。大康6(285)年になって、慕容鬼のために、襲われて破られることになった。その王依廬は自殺し、子弟は走って沃沮を保った。

「桓檀古記~大国本震国本紀」

或いは、次のようにも云われている。依廬王は鮮卑の慕容鬼に敗れ、逃れて海に入り還らなかった。子弟は、走り、北沃沮を保った。明年、子依羅が自立すると、慕容鬼は又、国や人を侵し、掠めるので、衆数千を率いて海を越え、倭国に入り王となった。

園神・韓神(そのかみ、からかみ)

桓武帝が平安遷都のとき、園神・韓神という神さまがすでに祀られていて、建都のため、これを取り除けようとしたところ、神託があり、

「長くこの地にあり、帝都を護らん」と。

こうして、韓神園神は、大内裏に当初から祀られた、唯一の社となった。

延喜式によれば、

「宮内省坐神三坐 園神一坐 韓神社二坐。春二月冬十一月丑日 祭之参議一人就祭所行事」

園神が一座で、韓神が二座。合計、三座が宮内省にまつられた。

平安時代の宮中神楽の演目のひとつ「韓神」の歌詞は以下のようです。

「三島木綿 肩にとりかけ われ韓神は 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや」
宮中神楽歌(鍋島本家本)

「カラオギセムヤ」は、原文では「加良乎支世牟也」となっており韓神の降臨を願う神降ろしが、宮中のいずれかの神前で執り行われていたのでしょう。

「ソの神」は新羅神、「韓神」は百済神ですかね。

「古事記」

大年(おおとし)神が、神活須毘(かむいくすび)神の女・伊怒比賣(いぬひめ)を娶して生める子は、大國御魂(おおくにみたま)神、次に韓神。次に曾富理(そほり)神。次に白日(しらひ)神。次に聖(ひじり)神。

スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれたのが大年神(おおとしのかみ)

スサノオの神話は古代東アジアのブルボン家のような広がりを持っているように見えます。



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