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ダンディズムとは苦行の果ての結晶なのでしょうか。

井原西鶴の『西鶴置土産』は、西鶴の死後にその弟子たちによって発表されたもので、解釈の方法でいろいろ議論が分かれています。

一つエピソードをご紹介しましょう。

上野の池之端に金魚屋があって、そこへ毎日金魚のえさ・ぼうふらを売りにくる乞食のような男がいました。
あるときそこへ三人の金持ちが金魚を買いにやってきました。

その男と出くわしてよく見れば、ぼうふら売りは「伊勢町の月夜の利衛左門」というかつての遊び仲間のあいだでは有名な大尽でした。

そんな利左を見て三人は驚き、なんとか金を出し合って助けようとしますが、「女郎買いの行く末はこうなる習い。好きでやったことなので、恥ずかしいことでもない」と言って金を受け取ろうとしません。

しかしみんなの好意はうれしいものだ。久しぶりだし、酒でも飲もうという事になり、利左は、近くの茶屋で「これしかないが、酒をくれ」と、その日の商売の売り上げ25文をぽんと投げ出しました。さすがにキップが良いようです。

それから、近くだから利左の家にいこうという話になって行って見ると、むかし吉原で有名だった女郎が笑顔で顔見知りの三人を迎えます。

貧しい住まいで、寒いのに子どもは裸のままでした。お茶をいれる薪さえなく、こわれた仏壇の扉をたたきわって火にくべる始末。

これには客たちもますます哀れに思って、帰る時に持ち合わせの金を出し合って、そっと置いていきます。その額は一歩金三十八、細銀七十目という大金でした。

彼らが暗くなった夜道を歩いていると、後から利左が追いかけてきて、「これはもらういわれの無い金だ」と道に投げて帰っていってしまいます。

客たちは二、三日後に使いの者をやって女房宛に届けさせようとしますが、その時すでにそこは空家になっていたと・・・

この話のオチは、この三人の分限者は利左の落ちぶれようを見て、女郎買いをやめたので、遊郭の女郎・三人は大きな損失をこうむった、となっています。



深みのある話ですが、「好色・放蕩の行く末は悲惨である」というような単純な道徳話では無いように思います。

「女郎狂いする程のものに、うとき一人もなし」という西鶴の、遊里に入り浸り好色に徹した放蕩の末、人間性を磨き、やがて隠者の境地に達するという思想から見ても、これは一種の遊びに対する覚悟とダンディズムの話なのではないか。

そう思える赤西仁と黒木メイサの物語なのでした^^



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