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こんにちは。

3記事かけば順位は2000番台になるんですねぇ^^

ということで、

神功皇后の新羅征伐というのは、三国史記の「浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)の乱」「倭囲金城」のことではないでしょうか。

そうすれば、この進軍の主体は、弁辰(任那)における倭人国・浦上八国になってしまいますが^^

■日本書紀

仲哀天皇 が、

「そんな神は聞いたことも無い!何?速狭騰(ハヤサノボリ)?」と新羅侵攻を否定すると、皇后は、

「もう!あなたには豊かな国は手に入らないわ。この国はお腹の子がやっていくのよ!」とヒステリー気味に神がかりしました。その夜、天皇は急に発病して亡くなられました・・・・

皇后は遂に男装して新羅に遠征します。神の導きによって船は進み、新羅の国中に軍勢を押し進めました。新羅の王の宇流助富利智干(ウルソホリチカ)は降伏し、

「こりゃたまららん。日本国の内官家(うちつみやけ)として朝貢しますので許してください」と降伏しました。

一書には、新羅の王を海辺で処刑して埋めました。そして新羅に駐留する使臣を一人残して帰還します。王の妻は夫の屍を埋めた場所を知ろうと、使臣を誘惑し、場所を聞き出すやいなや使臣を殺してしまいます。そして王の屍を移葬すると、その使臣の屍を墓に埋めて、

「この墓はお前にお似合いだ」と言いました。天皇は激怒し、大軍を率いて新羅を攻めました。国人たちは恐怖し、王の妻を殺して謝罪しました。

■三国史記

のちに倭国の使者葛那古を接待したときに、調子に乗って

「倭の王を塩奴(潮汲み人夫)にして、王妃を炊事婦にしよう」と言ってしまいます。これを聞いた倭王は大いに怒り、将軍の于道朱君を派遣して新羅に攻めてきました。于老は倭軍の陣に赴いて失言をわびましたが、倭人は許さず、于老は捕らえられて焼き殺されてしまいました。

于老の死後、味鄒尼師今の時代になって倭国の大臣が新羅に訪れたとき、于老の妻が味鄒尼師今に願い出て、私的に倭国の大臣を饗応しました。大臣が泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、怨みを晴らしました。このことが原因で倭人は新羅の首都金城(慶州市)を攻撃してきましたが、勝てずに引き上げたといいます。



どちらにしても頻繁に半島と倭国の間にやりとりがあり、考古学的にも伽耶の鉄をめぐる交易は盛んであったはずなのに、あわれな仲哀天皇は、海の向こうに国があることを信じなかった、というのがおかしすぎますね。不審死も含めて。

于道朱君→うじしゅくん→宇治宿禰→内宿禰→美称の「武」がついて、武内宿禰



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