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こんにちは。

浮世のことは、夢のまた夢。



韓国の国民大学学長・李鐘恒氏は次のように述べている。

【加那人は倭人である。】 
その範囲は「慶尚南道、慶尚北道の南部」及び
「全羅南道、全羅北道の南部」さらに「鶏林国は加那から独立して新羅になつた」

「狗邪韓国は何処にある何国をさすのか。

『魏志・東夷伝・弁辰条』によれば、弁辰十二国の一つに弁辰狗邪国という名前が見える。これ以外には<狗邪>という名前はない。では何処であるか。いままで多くの学者が金官加耶に比定している。問題は、弁辰十二国の一つである金官加那を、今度は倭人伝では倭国の最北端にある国 としていることである。

もし倭国が日本列島内に限られていり、あるいは韓半島と日本列島の間の島々に限定されていたとすれば、絶対に「到其北岸狗邪韓国」とは書けないと考えるのが至当である。文面通りの解釈は、狗邪韓国が倭国の最北端でなければ理屈に合わぬことはいうまでもない。これを極端にいえば金官加耶は倭国という結論になる」

「弁辰伝には、<辰韓人は皆、編頭なり。男女は倭に近く、亦文身す>として、人種からみても韓人と倭人が区別しがたいことを伝えている」



申敬澈氏は、「3世紀末ごろ、金海の狗耶韓国と東莱(今の釜山)の居シツ山国とが政治的に統合して、金官伽耶になりますが、5世紀前葉、突然金海大成洞の集団が行方不明になってしまいます。それ以降の金官伽耶を誰が管轄するかといいますと、福泉洞古墳集団の可能性が高いのではないかと考えています。そして532年に金官伽耶が滅びた」と述べています。



金官伽耶領内の遺跡でもう一つ特徴的なことは、筒形銅器、巴形銅器、碧玉製紡錘車形石製品、碧玉製の各種石鏃、碧玉製の玉杖といった古代日本に関係する出土品がかなり多い点である。これらの品々は、当時の金官伽耶が日本列島の倭と活発な交流を持った証拠とされている。当時の倭国は金官伽耶との交流によって鉄を入手していた。



さらに興味深いのは、金海大成洞遺跡からの日本系出土品は近畿地方のそれと深く関わっているのに対して、金海良洞里遺跡から出土するものは北九州を中心とする弥生後期のものである。つまり、両遺跡からの出土品には違いがある。このことは、狗邪韓国時代は倭との交渉は北九州が相手だったのに比べ、金官伽耶の時代になると対象地域が畿内に変わったことを明確に物語っているという。

■金海大成洞と福泉洞古墳集団。

応神紀十四年 弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく。「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅國に留れり」とまうす。 ここに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。>200年、なんとかならないの^^

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