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こんにちは。

男性というのは、わが子に対して「確信」というのが持ちにくいものです。

先日アップした日本書紀 はヤマトタケルの子・仲哀天皇の変死で終わっているのですが、この人物は謎に包まれています。

仲哀二年、九州の熊襲がそむいたので、仲哀天皇は瀬戸内海を西に向かい、穴門(山口県下関市)に基地を設けます。神功皇后は北陸の角鹿から出雲を経由して、合流し六年後、やっと仲哀天皇らは九州に向かいます。

仲哀天皇が橿日宮(福岡市)で軍議を開いた時、神功皇后に神が憑依し、「熊襲にこだわらず、海の向こうの新羅国を討て」と告げますが、仲哀天皇は、この神託を無視し、熊襲を攻撃。敗れた仲哀天皇は、天罰があたって急死します。

一説には熊襲の矢にあたって死んだとも、石見神楽では新羅の怪物 の矢で死んだとも言われています。

神功皇后は神のいいつけを守り、朝鮮半島南部を制圧し、九州に凱旋し、応神を産みますが、この間、新羅に向かう船の中で臨月を迎えた神功皇后は、腰に石を挟み、産み月を遅らせたといいます。十月十日じゃなかったんでしょうね^^

やがて生まれた応神の摂政として神武天皇と似たようなコースで東征し、応神にとっては異母兄弟にあたるヤマトの王子たちを殺して即位することになります。



渥美・熱海など全国にその名が地名として残る海洋民の阿曇氏 が祀り、現代に至っても、その子孫・阿曇磯和氏が祭祀を執り行っている神社は、福岡市志賀島の志賀海神社 です。そう、金印の出たところですね。

祭神は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)

住吉大神というと、大阪市住吉区の住吉大社が最も有名ですが、これはもとから大阪にあったものではありません。神社縁起および日本書紀によれば、住吉大社の祭神は神功皇后の三韓征討に功があって、皇后の都(大和)への帰還途中に、新しくこの地に鎮座したものだとされているからです。

ではもともとはどこにあったのでしょうか?

住吉大神は、表筒男・中筒男・底筒男。a-sumi(海に住む)=sumi-yoshi(住む良く)は安曇の神と同一神だと思われます。

住吉大社神代記 (すみよしたいしゃじんだいき)は、古来より住吉大社に伝来し、その由来について述べた古典籍。全1巻、719行。古代史研究の上で、重要な文献の1つとされる。重要文化財。

ここにはこう書かれてあります。

仲哀天皇が死んだ夜、神功皇后は住吉大神と「密事」あり、俗に夫婦の間柄となったと。

仲哀天皇が亡くなられた晩、神功皇后の脇に侍っていた男性は武内宿禰でしたが、さて、住吉大神は誰なのでしょう?

母親にしかわからない事って、ありますよね^^



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