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こんにちは。

今上陛下が人格者であることはわかっているのですが、宮内庁の職員は、身を挺してでも止めるべきではないでしょうかね。まあ、止めてもお聞きにならないのでしょうが。

天皇陛下、追悼式ご出席へ 負担を考慮し20分間に短縮

先日、心臓バイパス手術を受けられ、退院したばかりで、まだ胸に水がたまっている状態で、当然、骨もくっついていないのに3月11日の東北大震災の式典に出席するとは・・

若き軽井沢のテニス・ボーイも、その職につかれるや否や、日々日本国の安寧を祈り、災害にあった人、一人ひとりにお声をかけられる事をわれわれに成り代わって行われる仕事につかれました。わずかかもしれませんが、その一言で生きる望みを得た人は100人や200人では無いでしょう。

面々と1500年以上も継続する一つの聖家族の総領として生まれてきたことというのは、われわれが思うよりも重いことなんでしょうね。

1000年の後、日本国があれば、内閣総理大臣などという行政者の名前や仕組みが残っているかどうかは、はなはだ懐疑的ですが、この国がある限り、「穢れ無き偶像」としての天皇は存在するのではないだろうか。

なんだか、そう思います。



さて、天皇のもともとの氏姓 は何だったのでしょうか。

もともとは日向の一氏族であったとしても、古来日本では貴人の名を呼ぶことはタブーでしたし、制度ができて、天皇は自らは姓を持たず、氏の名と姓(かばね=身分と職制を表す)を臣下に与えるという事で苗字が消失してしまったのでしょうが、何らかの呼び名はあったんじゃないでしょうか。

『宋書』文帝紀元嘉二十八年の条には、「秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す」

とあり、倭王である倭濟とあることから倭王の姓は「倭」であると推定できます。

また、

『隋書』列傳・東夷・倭國に、「開皇二十年(600年)、倭王あり。姓は阿毎(アメ「天」」、字は多利思比孤(タリシホコ「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王」)と号す」

『新唐書』列傳・東夷・日本には、「その王の姓は阿毎氏。みずから言う。初主は天の御中主と号す。彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城に居る。」

とあり、「天、あるいは阿毎」氏と国際的には名乗った可能性があります。これが現皇室か九州の地方政権の王かどうかについては諸説ありますが。

また、

現皇室の直接の祖先を継体天皇とすれば、「息長(おきなが) 」氏の可能性も捨て切れませんね。息長氏は、何らかの神聖性があった氏族のようで、蘇我氏や大伴氏が政治権力によって大豪族となったのと対照的に、何代にもわたって皇后や后を皇室に入れることで「血脈」によってその「真人」というわが国氏姓制度の最高位に位置した氏族です。

また、

『晋書』「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されています。「男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。」

『梁書』「列傳・諸夷・東夷・倭」にも以下の記述があります。「倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。」

周王室の流れをくむ東海の国は、いわゆる「姫氏」であるというのが中国人の考えのようです。

しかし姫氏はどちらかといえば、紀氏なんじゃないですかね。

書紀の顯宗《けんぞう》天皇三年(487年)にはこうあります。

「この年、紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)は任那をまたがり支配していた。高句麗につながり、三韓の王となろうという野望があり、宮と司をを整え、自らを神聖(かみ)と称した。

任那の左魯(さる)らの計を用いて、百済の官吏を殺し、帯山城(しとるむれのさし)を築いて倭からの東道をさまたげ、糧食搬入の港を封鎖して、軍をして餓え困らせた。

百済王は大変怒り、軍師らを遣わして帯山城を攻めさせた。紀生磐(きのおいわ)は向かってくる敵を、全て滅ぼしたが、ついには兵つき、王になることができぬと悟り、任那より倭に帰った。それで百済は紀の軍兵三百余人を殺した。」

1500年の昔、高句麗と通じ、朝鮮半島と九州をあわせて「神聖王」となろうとした人物がいた。

なんだか、わくわくしますね^^



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